以前にもバラトンに関する記事(ハンガリー:バラトン湖の魅力は岩石?)を執筆させていただいことがありますが復習も兼ねて改めて位置確認を行うことにしましょう。 バラトン湖はハンガリーの北西部にある同国最大の淡水湖で、周辺地域を含めてバラトン地域と呼ばれることも多いです。 バラトン地域はハンガリーで最も独特な自然環境をもったところで、陸封型の湖は固有種の宝庫となっていることに加えて過去の火山活動の名残として温泉が湧いている箇所が数か所あり、中でも有名なのが湖から離れたところにあるへーウィーズ温泉です。 また、バラトン地域はヨーロッパ各地から観光客を惹きつける保養地としても名高く、夏のバカンスシーズンになると国内外から湖水浴や温泉などを目当てに多くの観光客が足を運びます。また、周辺の山々への登山を目的に訪れるハイカーも多く、筆者もまたその一人です(笑)。 バラトン湖といえばブドウ?唐突ではありますがバラトン湖とえば知名度が実際にどれほど高いかどうかは別としてとにかく「ブドウ」です。 いきなり何を言ってるんだと思われる方が多いかと思いますが実は冒頭文の中にヒントがひとつ混ざっています。それではどういうことなのか詳しく説明していきます。 ①過去の火山活動冒頭文の中に入っていたヒントとはまさしく過去の火山活動です。以前に「バラトン湖の魅力は岩石?」でも述べたようにこの地域はかつては火山活動が活発な地域でした。 そのため、この地域の土壌は火山灰など、火山由来のものを豊富に含み、このような土壌では水捌けが大変よくなります。ブドウの栽培に適した土地は水捌けのいい土地ですからその意味でここは合格なのです。山梨県でブドウの栽培が盛んなのもこのような土壌であるからなのですね。 ②起伏のある地形 バダチョニ山から撮影した写真ですが写真の下の部分にブドウ畑が映っています。分かりにくいですが写真中央をよく見ると起伏のある地形になっているのがお分かりかと思います。かつて火山活動のあったこの地域は高低差にも富んだ地形をしています。 ブドウの栽培は平地で行われる場合も多く、中にはイランのように水田に近い方法で栽培するところもあります。 しかし、水捌けの良さをしっかり発揮する場合は高低差がある方がいいと言われています。 考えられる要因として高低差があれば水が長時間留まることはないという点が挙げられます。逆に言えば平地の場合は水は…
今や旅どころか外出することすらハードルの高い日々ですが、じっと耐え忍ぶ以外に術はありません。 そこで世界史と筆者の過去の旅をテーマに、役に立つのか立たないのかよく分からないうんちく話をしたいと思います。 キーワードは「カザフスタン」と「チンギスハーンのガチギレ」です。 チンギスハーン(チンギスカン) この人物名を知らないという人は世界的にほぼ皆無に近いのではないでしょうか。 短絡的にまとめるならば統一モンゴル帝国(元王朝)の建国の父である共に短期間でユーラシア大陸の大部分を支配下に置くという驚異的な功績を持つ人物でもあります。 ただし、帝国領土が最大になるのはチンギスハーンの死後になってからですが。 このような功績から遊牧民の英雄として中央アジアを中心に尊敬を集めた他、モンゴルでは神としてあがめられています。 そんなチンギスハーンですが中央アジア攻略で背筋が冷えるような側面を見せています。 カザフスタンはどこ? 中央アジアで旧ソ連の構成国でもあったカザフスタンは北はロシア、東は中国、西はカスピ海(海とありますが実際は塩水湖です)、南はウズベキスタン、キルギスタン、トルクメニスタンに囲まれた内陸国です。内陸国としては世界最大級の面積を持つ国であると共に宇宙開発の中心地でもあるバイコヌールもカザフスタンにあるので覚えておいて損はないでしょう。 一口にカザフスタンとは言っても実際にどこでチンギスハーンの怒り具合が分かる場所を見れるかというと、南カザフスタン州のオトラル(Otrar)というところになります。最寄りの大都市は州都シムケント、中規模都市はテュルキスタンで、テュルキスタンからであれば車で1時間半前後です。公共交通機関はないに等しいので筆者は宿主の車で連れていってもらいました。 余談ですが南カザフスタン州はウズベキスタン国境に近いだけでなく、住民も多くはウズベク人です。 そのため、カザフスタンの中にあるウズベキスタンということもできる地域になっています。シムケントという地名もウズベキスタンの首都タシケントのように「ケント」というウズベク語が入ってるところからも地図上ではカザフスタンにいながら文化的にウズベキスタンにいるという体験をすることになります。 オトラル事件と原形をとどめない遺跡 近年復元されたばかりの城門をくぐるとそこにはオトラルの遺跡があります。 元々オトラルはオアシスがあったことで栄…
まだ2回しか訪れたことのない台湾ですが、筆者の大好きな旅先であることだけは断言できます。 また、生憎今は旅できないご時世ですが、もともと台湾は日本人からの支持が厚いデスティネーションでもありますからね。首都台北やその周辺でも見所や食べどころがいっぱいつまっています。 さて、以前に筆者が台北を拠点に旅していたとき、それはそれは不思議な光景に出会いました。それはとある日曜日の台北駅での出来事で、むしろインドネシアにいるのではと思うような光景でした。 台北駅は実は想像以上にディープな場所のようです。 日曜日の台北駅はインドネシア? とある日曜日の台北駅(2019年8月撮影) とある日曜日の台北駅の様子です。一見ただの人混みに見えますが平時はそれほど混み合うことはありません。 よく見るとカラフルなヒジャブ姿の女性が多く見えるので多くはムスリムであることが分かります。そう、彼らは在台インドネシア人です。筆者は台北を2回訪れましたが最初に訪れたときにまず目にしたのがずばりこれでした。2回目に訪れたときの日曜日も同様に同じ光景をみました。 写真は2019年1月、インドネシアでは大統領選挙が行われていた時期でした。駅の外に出てみればそこでは現職のジョコウィドド候補(2020年5月現在大統領在任中)を応援する集会が大々的に行われていました。 台北にいるというのにインドネシア語ばかり聞こえるなんとも不思議な光景でした。 この日曜日の台北駅に現れるリトルインドネシアについて、台湾とインドネシアの関係をみると事情が分かりやすいです。 台湾に住まう外国人の中で最も人口が多いのがインドネシア人で、約25万人が住んでいます。台北だけでなく、台湾各地に多く住んでおり、介護や漁業、サービス業などの分野で重要な労働力になっているようです。筆者も台湾東岸の町の漁港でインドネシア人労働者を目にしたことが記憶に新しいです。 それにしてももともと台北駅は在台インドネシア人の情報交換やコミュニケーションの場として使われていたそうで、次第に現在のようなインドネシア人コミュニティーの大規模集会のようなものへと変化していったそうです。 とは言え、コロナパンデミックの中ではこのような光景はしばらくの間みられないでしょうね。 台北駅の近くに元祖リトルインドネシア 先ほども述べたように、台湾には25万人ものインドネシア人が住んでいます。台北駅のリトルイ…
※注意※2020年3月21日現在、マレーシアは外国人の入国禁止措置を、シンガポールは入国後14日間症状の有無にかかわらず隔離措置を実施しています。 新型コロナウィルス(COVID-19)の感染状況が「パンデミック」になってから本来なら旅行シーズンの春休みが狂わされているという方が多いのではないでしょうか。これから先当分出国できない状況が続くと思いますが、時間が経過してこの記事が目についた時には収束しているとなお嬉しいものです。 ということで、筆者の旅の備忘録も兼ねてマレーシアのジョホールバルからシンガポールまでの路線バス旅を共有したいと思います。 ジョホールバルからシンガポールまでのアクセスは3通り 1.バス一口にバスと言ってもマレーシア各地から運行されている長距離バスと路線バスがありますが、今回はジョホールバルからなので路線バスがメインになります。ジョホールバルからはラーキンバスターミナルとJBセントラルから乗車でき、ウッドランズ国境検問所(CIQ)から先のシンガポールの主要MRT駅や中心部まで結んでおり、路線も東京メトロも顔負けなほど多いです。 2.鉄道マレー鉄道がJBセントラル駅からウッドランズCIQ駅まで10分で直結しています。ひと昔前であればCIQのその先にあったシンガポール駅まで乗り入れていましたが廃駅に伴ってCIQが終点になっています。 3.タクシー一口にタクシーと言ってもマレーシアでよく目にする赤いタクシーではなく、黄色い車体の越境タクシーになります。車内には入国書類も備わっていて乗れば最強な交通手段ですが見つけるのは大変です(笑)。シンガポールですとクイーンズストリートバス停の一角で暇そうに戯れているのでみつけやすいです。 筆者が路線バス推しの理由 筆者は路線バス推しですが最初に警告しますと朝夕の渋滞はヤバいです(笑)。何もなければ10分以内で通れるところを2時間もかける羽目になりますからね。ですので朝夕のラッシュ時だけは予約してでも鉄道を使うことをお勧めしますが、それ以外は路線バス推しです。 1.とりあえず安いジョホールバルから乗車すると片道一律3リンギットですので日本円にして60円前後、安いです。とりあえず路線バスが一番安いということを覚えておいてください(笑)。 2.予約とは無縁マレー鉄道を利用する場合、どうしても全席指定席である関係で予約が必要になります。その…
悪名高いコロナが収束した暁にまた訪れたいと考えている国のひとつに中央アジアのカザフスタンがあります。 昨年早春に訪れた際、文化的にはウズベキスタンと言っても過言ではない南カザフスタンのとある世界遺産の廟建築を見学したのですが一部修復中だったのでまだ見れてない箇所が残ってるからです。特に見ておきたいのが美しい巨大な青いドームなのですがそれもまた当時は修復中でした....。 今回取り扱う世界遺産というのは中央アジアのメッカとは言われるものの未完のまま終わったホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟という廟建築で、南カザフスタン州都シムケントから鉄道で3時間ほど西へ進んだテュルキスタンにあります。 ホージャ・アフマド・ヤサヴィとは何者? ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟を知る上でまずは知っておきたい人物が廟の名前の由来となっているホージャ・アフマド・ヤサヴィー(Khoja Ahmad Yasawi)という人物です。 平たく言えば「イスラム学者」の一言でまとめられそうなのですが実際のキャリアは詩人でした。そうとは言ってもヤサヴィーは現在のウズベキスタンを拠点に中央アジアで広く宣教活動をし、カザフ人などの中央アジアにおけるテュルク系遊牧民のイスラム化に大きな影響力を持った人物でもありました。 廟のあるテュルキスタン(当時の名称はヤシ)もヤサヴィーが移住してから本格的に都市開発が始まった場所で、ヤサヴィーが没した場所でもありました。同様にここに葬られたことから「テュルクの聖なる土地」(ヤサヴィー本人もテュルク系であるため)という意味を込めたテュルキスタンという都市名になりました。 ティムール朝が本格的な廟を建立しようとするものの... ヤサヴィーの死後約200年が経過してティムール朝が勃興すると、初代君主であるティムールが当時あったヤサヴィーの廟の増築を命令します。ヤサヴィーの生前のキャリアとヤサヴィー自身が遊牧民から広く支持を集めている人物であったことも要因にあり、加えて当時敵対勢力圏に組み込まれていた地域の遊牧民からも支持を集めるという狙いもあったと考えられています。 こうして小さな廟からモスクや図書館も備えた機能的な大きな廟へと生まれ変わるものの、ティムールが死亡するや否や建設事業は結局打ち切りになりました。 写真は廟の南門を映したものですが、最初の写真のような青いタイルはなく、基礎部分がむき出しの…
今回でインドネシアでの乗り鉄体験記なるものは3回目になりますがひとまず今回で最終回にします。 前編では乗り方の解説とJatinegara駅で乗り継ぎをしくじった話、続く中編ではジャカルタのターミナル駅のひとつであるManggarai(マンガライ)駅からボゴールへ目指した話をさせていただきました。 これまではいずれも乗り鉄が中心でしたが今回はインドネシア最大のモスクであるMasjid Istiqlalを見学した帰りに最寄り駅であるJuandaからManggaraiまで利用して撮り鉄に精進したお話になります(笑)。 ところで冒頭の写真で背景に実はその例のモスクが映りこんでいるのですがお気付きでしょうか? 懐かしの6ドア車 これまでジャカルタで乗った元JR東日本205系は元武蔵野線(千ケヨ車)がメインでしたが今回は別の路線で見覚えのある205系に遭遇しました。なお、今では6ドア車のついているものは殆ど残っていないのですが使われている路線ももとから限定されていました。 比較的最近になって姿を消したものとして横浜線と埼京線で活躍していた205系に一部6ドア車のついている編成がありましたね(ジャカルタで活躍中ですが)。ところで東京都内ではよく使うあの路線由来のものもここで走っているのはご存知でしょうか? そう、山手線です。山手線でも一昔前であれば205系が数多く走っていた路線で、その中に6ドア車の入っている編成も少なくありませんでした。そのため、ジャカルタで乗っていると時々「東ヤテ」と書かれたものを目にしますがそれこそまさに在りし日の山手線で活躍していた205系電車なのです。 インドネシアらしい撮り鉄もしたい インドネシアではジャカルタを走るKereta Commuter(通勤列車)と主に長距離輸送を中心に担うKereta Apiがあり、ジャカルタエリアでは線路を共有しています。 そのため、機関車が特徴的なkereta Apiと日本の通勤車両が共演するというシーンもよく見られます。ちなみに長距離については客車列車で、これはインドネシアの国産だそうです。それにしてもこの機関車がくるとずっしりと重いジョイント音が特徴的なので癖になってしまいます(笑)。 インドネシアらしいといえば何気なさそうに見えるこの構図も該当するでしょう。 理由は単純で、千代田線の車両が元JR東日本(武蔵野線、埼京線、山手線)205…
さて、初回の前編(ここをクリック!)では感激と興奮のあまりにものの見事に接続列車を逃がして思わぬ長旅になってしまいましたが、今回はさすがにそこまで破天荒な展開にはしません。 中編ではいよいよKereta commuterに乗ってジャカルタ市内を出てボゴールという別の町へやや長めの乗り鉄を満喫します。ただし、満喫とは言っても仮に青春18きっぷでこんな車両にあたってしまうようではいわゆる「ロングシート地獄」と言われること間違いなしですが(笑)。 Stasiun Manggarai(マンガライ駅) 筆者はジャカルタ市内ではマンガライ駅にほど近いところで宿泊していたので今回の乗り鉄のスタート地点はマンガライ駅になります。 マンガライ駅はジャカルタ市内のターミナル駅(他にJakartakota、Jatinegara、Pasar Seneg駅など)のひとつです。ターミナル駅が複数もあるという点では東京とよく似ている点でしょうがマンガライ駅についてはかなり癖の強い駅です(笑)。 マンガライ駅は確かにTanjung Priok行を除く全系統の通勤列車に加えてジャカルタスカルノハッタ国際空港からKA Bandara(空港連絡鉄道の記事も参考に!)も乗り入れるターミナル駅ではありますが長距離列車についてはなんと多くが鈍足で通過します(笑)。 一部停車する列車もありますが基本は空港・通勤列車がメインのターミナルとみてもいいでしょう。東京で例えれば特急ひたちが猛スピードで北千住を豪快に通過しているような感じです(笑)。 ちなみに上の写真を見ていてお気づきの方が多いと思いますが皆さん直接線路を渡っています。ここは数少ない地下通路のある駅なのですが殆どの利用者はこれを選びます。このような光景はインドネシアでよくみられることで、列車が接近すると利用者が渡らないように警備員がくさりのように塞いで安全確保をします。 なお、この駅を利用するときにひとつ用心していただきたいところがあります。 単刀直入に申し上げて周辺の治安は「微妙」です。 スラムとまではいきませんが貧民街のようなものが形成されているので貴重品などには特に気を付けておきたいところです。(先ほどリンクを載せた空港連絡鉄道の記事で詳しい記述があるのでそちらも併せてご参照ください。) Manggarai↔Bogor 前回と違ってありがたかったのは行き先ごとにあらかじめ…
※重要※2020年3月21日現在マレーシアは外国人の入国禁止措置をとっています。 新型コロナウィルスのせいでまともに外に出ることすらかなわないという人が急増中です。 外出自粛など、こうなると確かにどうしようもないですからね。そうであっても世界には興味を引くものが数えきれないほどあるのもまた事実です。沈静化したらそんな場所を早速訪れたいものです。 それはそうと、先月マレーシアを訪れた際に大変興味深いモスクが南部ジョホール州都のジョホールバルにあったのでさらに少々調べてみました。そのモスクの名はアブバカールモスクです。 外見はモスクというよりヨーロッパ式の宮殿? 何も言われないでこの写真を見せたらむしろヨーロッパ式の宮殿と答えたくなるところですが、これぞ今回紹介するアブバカールモスク(正式名称はMasjid Negeri Sultan Abu Bakar)です。このような外観がヨーロッパ式のモスクは世界的に極めて希少な存在で、このような外観からマレーシアで最も美しいモスクのひとつとして賞賛されています。 それにしてもモスクというと大きなドーム状の屋根があるアラブもしくはオスマン、ペルシャ様式の建築のイメージが先行しますがどうしてここだけ異端児と言っても過言ではないモスクができたのでしょう?そこにはマレーシアの歴史が深くかかわっています。 1892年のマレーシアと英国ビクトリア様式 さて、1892年という数字ですがこれは建設されたときの年になります。1892年というとそこから18年遡ると1874年に英領マラヤが成立しています。つまり、マレーシアはこの時すでに英国統治下にあったことを示しています。 英国統治は第2次世界大戦時の1942年に一時旧日本軍により放逐されますが(その後さらにジョホールバルからゴムボートでさらにシンガポールから英軍を放逐したのも有名です)戦後返還されると1957年まで統治が続きました。 この英国統治こそ重要なキーワードのひとつになります。 冒頭部でヨーロッパ式の宮殿のように見えると述べましたが実はこの建築様式そのものが宗主国だった英国からもたらされたものです。 敢えて専門用語を用いるとビクトリア様式を採用しており、これは1837年から1901年にかけて在位したビクトリア女王の時代に確立されたものです。厳密には中世のゴシック様式に当時画期的だった近代素材をブレンドさせてできた…
以前にマレーシアの航空会社の搭乗体験について記事にしたことがありましたが、今回はそのマレーシアに実際に行ってみることにしました!(なお、マレーシア航空について気になるという方はこちら(成田→クアラルンプール)とこちら(クアラルンプール→ジャカルタ)を併せてごらんください) 本題に戻りますがまず最初に訪れたのは首都のクアラルンプールで、そこにはかつて中央駅として機能していたとても美しい駅がありました。最初見たときはてっきりモスクではないかと思ってしまったその駅とはいったい何者なのでしょう? ムーア様式を取り入れた白亜のクアラルンプール駅 クアラルンプール駅が中央駅でなくなってしまった理由については後ほど解説することとして、まずはこの駅の見所について紹介していきます。まずは何と言ってもモスクと錯覚してしまうような美しい外観でしょう。 クアラルンプール駅自体は1910年にイギリス統治下に開業した駅ではありますが設計を担当したA.B.ヒューバックは駅に本来ならモスクにあるミナレットやドーム状構造を積極的に取り入れていき、最終的に多くのモスクで採用されてきたムーア様式を取り入れてこのような姿になりました。 これはインドのタージマハルの影響も受けていると言われており、実際にクアラルンプール駅以外でも北部のイポー駅もまたタージマハルのような外観から人気を集めています。 当時は現在のクアラルンプール駅周辺に中心街(今ではオールドタウンと呼ばれている)が形成されており、今ムルデカ(独立)広場となっている旧総督府もほど近いところにあります。今は中心部がうつったので利用者もまばらになっていますが駅舎の美しさから観光名所のひとつになっています。 中央駅になれなかった事情 実際のところ2001年までは中央駅として機能していましたが同年4月にクアラルンプール・セントラル駅(以後KLセントラルとする)が開業するとその役目を終えることになりました。日本で例えるなら鹿児島駅と鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)の関係が近いかも知れませんね。 クアラルンプール駅は3面4線の構造で、中央駅にしては線路が少ない印象です。市内交通については川の反対側のPasar seni(パサールスニ)まで連絡橋はつながっていますがあまり便利とは言いにくいでしょう。その状態で路線網を拡大しようとするとこれはさすがに難しいです。 …
緊急事態宣言の解除だけでも驚きですが、どうも世の中は再び旅できる時代へと移ろうとしているようです。 それはそうと、今回は2年前に初めて訪れたチェコのお話をします。チェコと言えばプラハですが筆者が訪れたことのある都市は1か所だけで、しかもプラハではなくパルドゥビツェという超普通の町でした(笑)。超普通とは言っても旅人にとっても案外楽しい町でしたよ! ということでチェコの超普通の町、パルドゥビツェ(Pardubice)を独断と偏見で紹介していきます。 そもそもパルドゥビツェはどこ? 確かにパルドゥビツェは地球の歩き方には載っていませんが実は首都プラハから近いです。プラハから普通列車に乗っても1時間少々かかる程度で、ユーロシティーなら1時間ぴったりで到着です。空港もありますがなかなか面白い体験だったので別の機会でじっくり共有します(笑)。ちなみに筆者は空路でのアクセスでした。 そんなパルドゥビツェはチェコ第8の都市で、観光業が大いに盛り上がるプラハと違ってここは工業が中心産業になっています。重機械工業や化学工業、電気設備工場などが集積するパルドゥビツェは第8の都市でありながら重要な産業都市として位置づけられています。 余談ですがパルドゥビツェに拠点を置くHCパルドゥビツェはアイスホッケーの国内リーグの強豪です。 超普通の町だけど... パルドゥビツェは超普通の町ではありますが何もないということは決してありません。むしろ影が薄くて気づかれないでいると言った方が正しいでしょう。その副産物として観光客でごった返すことがないので過ごしやすいですし、生活感のあるチェコを体感しやすいです。しかも住民曰く、プラハよりかは物価が安いそうです! それにしてもここ、超普通とか言っておきながら明らかに普通ではない迷要素もあります...。 如何にも工業都市という町並み チェコというとメルヘンというキーワードが先行しますが、パルドゥビツェは工業で栄える都市とだけあってそれに相応しい街並みを堪能できます。写真は宿泊先のアパートから撮影したものですが、20世紀前半あたりにタイムスリップしたかのようなプラハとはまた異なる趣のある町並みで、町の工業の発展した歴史を物語るかのようです。 超普通の町とか言っておきながら既に旅人受けしそうな予感がします(笑)。 公園から眺める旧市街 高台にある公園からは写真のように旧市街を一望することがで…